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My Little Honey 2
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熱したフライパンに落とされるベーコンとタマゴがジュッと音をたてる。
美味しそうな薄桃色に染まる黄身の表面に塩をまぶして、コショウをふりかければ、辺りに目玉焼きの芳ばしい香が漂った。
アスランが操るフライパンは丸を描くようにしながら、綺麗な円形の目玉焼きを形成させる。


「わぁ、アスラン。お上手!!」

「キラッ!?」


加熱したフライパンの前にキラが出てきたことにアスランは慌てて、キラに手を伸ばした。
火さえ使っていないものの、フライパンの温度は、80度以上になっているだろう。
腰で巻かれた大きなリボンを指でつままれて、キラの小さな体はふらふらと宙を揺れる。

「キラ〜、料理中は危ないから近づくなって何度も言っただろう!」

「でも、アスラン様…じゃなくてアスラン。すごく上手だから僕近くで見たかったんだよ」


未だに敬語が抜けきらないキラがアスランにつらされたまま、大きな両眼で不服そうにアスランを見つめる。
不満の色が強いその紫にため息を付きながら、アスランは何度目かになる言葉を口にした。


「だからって、危ないことはだめだ!」


キラがアスランと一緒に生活するようになって四日目。
すでに何度も言った言葉だった。
研究所から出たことが無いからか、キラは好奇心旺盛で色んなものに対して、体当たりだ。
たとえば掃除機。
もう少しアスランがキラの存在に気がつくのが遅かったのなら、今ごろ無傷では済んでいない。

そのほかにも色々ある。
冷蔵庫の中に入って凍えそうになったり、お風呂で溺れかけたり。
とにかくキラは目が離せない存在だった。
ふと目を離せば何かしら危険に局面している。今だってそうだった。

「でも、アスラン」

キラが昨日から頻繁に使う言葉だった。
しかし、彼は先日まで「しかし」や「でも」「だって」などの反論に用いる言葉を彼は知らなかった。
言葉については発音や語彙も普通のコーディネイター並みだったのに、主人に逆らう言葉は教えられていなかったらしい。
同様に否定する言葉についてもあまり知ってはいなかった。
彼の出生を思うと、アスランも心が痛んだが、徐々に教育外のことを見せてくれるようになってきたキラに嬉しさを覚えていた。


「でもじゃない!」


キラは反論するというよりも覚えたての言葉が使いたいだけらしく、楽しそう笑っている。

「だって、アスラン」

「だってじゃないだろう、キラ」


あと少しの間だけでも付き合ってあげたいと思い、わざわざアスランもキラが喜ぶ返答をするようになっていた。

「でも……あ、アスラン。フライパンから煙が出てる!」

「でもじゃ……、うわっ!!」


半熟を通り越して、茶色くなりゆく目玉焼きを視界に捉え、アスランは慌ててフライパンを電気コンロから下ろすが、既に遅く。
そこには黒い煙を出す、目玉焼きになる予定だったものがあった。

「黒くなってるけど美味しいの?」

「…………多分、まずい」


作り直しだと、溜息をつくアスランと違い、キラの目は初めてみる失敗した料理に興味津々のようだ。
危ないといったのにも関わらず、身を乗り出して、目を輝かしている。

「僕食べてみたい!」

「ベーコンはダメだけど、卵なら少しいいよ」


発がん性物質だけ気にしてそう言ってやると、案の定キラはオレンジジュースで口直しをすることになった。

「美味しくない……」

「だから、言っただろう」




キラとの生活で一番アスランが大変だったことが風呂だった。
普段なら烏の行水のようにシャワーだけで済ませてしまうアスランだったが、それではキラがよしとしなかったのだ。
アスランとの生活で何より気に入ったのが風呂らしく、何かと入浴をせがんでくる。
昼であろうと朝であろうと、一日何回入浴しようとも楽しいらしい。

アスランは休暇中に与えられたカレッジのレポートを書き進めていた。並ではない速さのタイピング音が部屋に響く。

「頭…が痛いな」

キラが来てからできるだけ深夜に進めていたレポートだったが、昨日資料が揃いきらずに進めることが出来なかったのだ。
寝不足のせいか、頭を割るように響く耳鳴りを無視しながらアスランはディスプレイを見つめた。
白黒のコントラストが目に痛い。

「ねぇアスランお風呂入ろう、お風呂!!」


ザフトの軍服を模したという赤い服を身に纏ったキラが、レポートを製作していたアスランのキーボードに飛び乗った。
ここ数日でキラの突然の出現には慣れたが、無意味な文字をディスプレイが表示するのを見て、アスランは微笑ましい気持ちになるのと同時に溜息をつく。
これで、本日二度目だ。

「キラ、温泉ならともかくお風呂って言うのは、体を清潔にするためで、そう何回も入るものじゃ無いんだよ」

「……温泉?」


新たな単語を出してしまったことに気づいて慌てた。
キラの語彙自体が増えることはよいことだが、行きたいと言われてはたまらない。
この前のイザークとのようなことがあってはいけないのだ。

「……じゃぁ、入ろうか。昼だけど。二回目だけど。湯をはるから少し待ってて」

「やった、じゃぁ行こうアスラン!!」


キラは目先の楽しみに反応してくれたらしく、それ以来温泉について聞き出すようなことは無かった。
アスランはレポートを保存して、パソコンを待機状態にすると足早にバスルームへと向かった。



「キラー、あと数分で……」


温度設定を終えたアスランが再び自室へ戻ると、キラがアスランが来るのを待ちわびたような表情で座っていた。
その目は新たな好奇心に満ちている。
楽しみのバスタイムだと知ればいつもなら飛びついてくるキラ。
その反応はそれとは違った。
アスランが不審に思って彼を見れば、彼は机のうえではなく違う物の上に座っている。
机におかれたチラシの上に。

「アスラン!」

「……キラ、それどこから」


そのチラシは先日ショッピングモール街で吸血鬼の姿をした女性から貰ったものだ。
新規オープンしたという遊園地のものだった。
捨てそびれたため、テキストの間に挟めていたのだが、キラはどうやらそれを発見したらしい。
アスランが机の上に置いておくんじゃなかったと後悔しても既に遅い。

「これ見て。遊園地だって、アスラン!このジェットコースタープラントで一番速いんだよ!!」

折れ曲がったチラシを手で伸ばすように叩きながら、キラが身を乗り出して力説する。

「そうなんだ、よかったねキラ。ほら、お風呂は入ろう?アヒルも浮かべてきたから。今日は入浴剤何入れる?キラが好きなチョコレートの香もあるよ」

キラが何を求めているのか察したアスランは彼の注目を逸らすように、入浴の話題を出す。
アヒルはキラが気に入っている人形だ。
水に浮かせば目がなごみ、キラサイズなら乗鴨できる。
昨日なら目を輝かせて飛びついた話題なのに、キラには既に遊園地しか見えていなかった。
先ほどのようには行かないらしい。


「ほら、観覧車もあるって!ね、アスラン行こう!!」

「だめだよ。キラ」


アスランの言葉にキラは一瞬つまるものも、それでは引き下がらなかった。

「ほらすごく夜景が綺麗だって書いてるよ。ねえ行こう!」

「キラ、ジェットコースターって何か分かってる?観覧車って何か知ってる?」


キラはうっと言葉を濁す。
チラシで楽しそうな人々を見ただけでは、雰囲気は伝わってきても何かはわからない。
"絶叫"と書いてあるから怖いものかと思えば、"楽しい"と書いてあるし、どのようなものか想像もつかなかった。
しかし、楽しそうな人々の雰囲気を見て興味が引かれた。
それにアスランと行けば楽しいと思ったのだ。

「分かるよ!だから行こうよアスラン。僕また人形のフリするから、ね?」


明らかに嘘をついているキラ。
なおも食い下がろうとする彼にアスランは溜息をつく。
人形を片手に一人観覧車にのる男など周囲からどう見られるかなんて考えなくても分かる。
そんな自分の姿を想像するとゾっとした。そして何より、人の多いところに行けようはずも無かった。
キラの存在は秘密とされているのだ。遊園地などもってのほかだ。

「無理だよ、キラ。諦めてくれ、君の姿は人に見られるわけには行かないんだから」

「じゃぁ、僕ぬいぐるみの中にでも何でも入るから!!」

着ぐるみのことを言っているのだろう。
人形サイズがあるかは知らないが、傍から見ればぬいぐるみだ。
人形とどちらがましか微妙なところである。

「危ないから無理だ」

「大丈夫だよ、この前は平気だったじゃないか!」

「あんなにバカな人間ばかりじゃないんだ。あれは彼に限ってのことだ。二度はない!」

「でもっ…!!」


一向に主張するキラにアスランは辟易していた。
キラを気遣ってレポートは彼が寝静まった深夜に遣るようになっていたし、しかも昼にすれば邪魔ばかりする。
家の中でもキラが危ないことをしないかと気を張っているせいで、くつろげることはない。

今も彼の為を思っての言葉なのに、キラは一向に理解してくれない。
始めはあんなに大人しかったと言うのに。
爪先で脳を削られるような頭痛がした、酷く耳鳴りもする。


「……これなら、はじめの方がよかったな」


深い意味を持たない言葉だった。
無意識に吐いたその言葉はアスランの意図しないもので、キラの表情が変わって、初めて自分の失言に気がつく。

「……アス……」


キラが悲痛に歪んだ表情でアスランを見つめていた。
目にはじわりと涙がたまり、それを必死で堪えているようだ。


「っごめん、キ」


アスランの言葉は最後まで続かず、キラは机からベッドへと降りた。
身長の足りない彼には簡単な動作ではないはずで、いつもはアスランに頼む上り下りなのに、机から飛び降りる。
ベッドのスプリングで少しはねると、シーツを伝うように床に下りて走ってゆく。


「キラ!」


呼ぶとキラは一度だけ振り向くが、そのまま顔を逸らして走っていた。



アスランは何もできずに、呆然とキラが消えた廊下を見つめる。
追えばすぐに追いつくだろうが、アスランにはそれができなかった。
アスランは、キラにフランクな話し方や、呼び方を今のようにしてくれと自身で願ったというのに、それを否定したのだ。
彼は研究所で長い間愛玩具としての教育を受けて、慣れるのに苦労していた。

しかし、慣れればとても嬉しげに「アスラン」と呼んでくれた。
教育を離れた行動を否定したということは、本来の彼を否定したということだ。
最低なことを言ったのだと自覚したが、既にキラはそこにはいない。
謝ろうにも、この歳までまともな友好関係を築いたことの無いアスランには何と言えばよいのか分からなかった。


「キラ……」




アスランにとってキラが初めての友人だった。

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――ピピピピッ ピピピピッ――

アスランは冷たく響く電子音で目を覚ました。
ここ数日隣にあった温もりを今日は感じられない。
鼻に抱きつかれることも無ければ、瞼を無理やりこじ開けようとする者もいない。
キラが来る前、普段のアスランの目覚めだった。

昨日の事があってから一日が経過していた。
キラはアスランが言った言葉を守ってくれたのか、それとも出る手段が見つからなかったのか、リビングのソファーでテディベアに抱きつきながらすやすやと眠っているはずだ。
夜中にこっそり見てみると、その瞳には涙がたまっていて、アスランは酷く申し訳ない気持ちになった。

「……はぁ…」

ゆっくりと体をおこして、髪をかきあげる。
そのままフラリと立ち上がると、耳障りな目覚まし時計の電子音を止めた。
本来低血圧の彼らしい行動だ。

そのままシャワーを浴びにいったが、湯船には昨日の名残が残っており、アヒルが無言の瞳でアスランを見つめる。
居たたまれなくなったアスランは、手早く浴びて、あがった。
心臓からつま先までに侵食する冷たい緊張に捕らわれながらリビングを覗くと、キラは昨夜と同じ場所でまだ眠っていた。


「……キ……」

喉まで出かけた言葉をアスランは飲み込んだ。
キラにあんなことを言った自分に、彼の名を呼ぶ資格は…


「……ごめん」

聞こえていないと分かりながらも、アスランはキラの眠るソファーに頭をもたれさせて呟いた。
キラが起きているときに言わなければ意味が無いとは分かっていたが、そのときの彼の反応を想像するだけでも、凍りつくような恐怖に捕らわれる。
その目に映るのは、軽蔑か嫌悪か。
傷つけたのは自分なのだ。嫌われても仕方が無い…。

アスランは、それでも彼の為の朝食を用意すべく台所に向かった。
許すのは無理でも、せめて笑っていて欲しい。
ここ数日で賑やかになった冷蔵庫を開けてカレーの材料を取り出す。
カレーはキラが この四日間で食べたもので、キラが一番気に入ったものだった。
今日はニンジンも入らない。


しかし、野菜を切ろうと包丁に手を伸ばしたところで、電話が鳴り響いた。
アスランは寝ているキラを起こすまいと、手に持つ包丁もそのまま、相手も確認せずに急いで通信を繋げた。
とたんにディスプレイに現れた顔に、げっと顔を歪める。


「……おはようございます。父上」


ディスプレイに映るのは、白髪交じりの髪をオールバックにまとめた、中年の男性。
顔には威厳が感じられるものの、与える印象に温かみは一片たりともない。
通信の相手先はアスランの父パトリック・ザラだった。
いつものようにしっかりと議員服を着込んでいる。
服には一寸の乱れもなかった。

シャワーを浴びたばかりのアスランの髪からは雫がたれ、熱ったためにワイシャツのボタンは外されている。
出来るだけアスランはその姿を見せまいとカメラから避けたがすでに遅かったらしい、パトリックの嘆息が聞こえる。

「……すみませんこのような格好で。どうかしましたか父上?このような早朝に」


言外に貴方が悪いとにおわせながら、アスランは通信の向こうに目をやった。
彼の仕事部屋のようだ。
ただしこの家ではなく、議会の方のだ。
デスクの上には良く見れば写真立が見えるが、アスランはそれだけは見まいとした。


『いや、レノアはいないんだな……』

いつもならみごとに用件しか言わないパトリックに珍しいと思えば、レノアの姿を探していたらしい。
いないと分かると、あからさまに安堵の表情を浮かべていた。
いつまでも彼は彼女に頭が上がらない。

「それで、何の用ですか?」

『ああ、お前の見合いのことだ』

「――はぁっ!?」


キラのためにつとめて声を小さくしていたアスランだったが、パトリックの意外な言葉に目を点にして叫ぶ。

「待ってください。見合いとは何のことですか!」

『クラインのご令嬢との見合いだ。ラクス・クラインはお前とて知っているだろう』

確かにアスランも知ってはいるが、問題はそこではない。
なぜ自分が彼女と見合いなどすることになっているのか。

『婚約は既に決まっているから、見合いと言っても形式的なものだ。クラインが一応というのでな』

「こ、婚約っ!?」


右手の包丁に思わず力が入る。
横暴な父だとは思っていたが、ここまでだったとは。
母を避けていた理由も分かる。
これがレノアにばれればただでは済まないのはパトリックだ。
その前に既成事実だけでも作ってしまおうという魂胆だろう。


「ちょっと待ってください父上、私は自分の結婚相手くらい自分で見つけます!!」

『ではオーブの獅子の娘カガリ・ユラ・アスハか。それとも大西洋連邦事務次官の娘フレイ・アルスターか。どちらもナチュラルではあるが、地位は申し分ないな』


勝手に決めないでくれと主張するアスランの前にパトリックが出したのは、金髪の少女の写真と、反対に燃えるような赤い髪が印象的な少女の写真だった。
二人ともアスランと同じ年くらいに見える。
アスハと言われたほうが軍服なのが少々気になるが。

『しかし、もし今後戦争が始まるようになれば苦労するのは目に見えている。やはりラクス・クラインが――』

「選ぶって言うのはそういうことじゃありません!!」


アスランは激昂のあまり叫んだ。
今まで引越しや身の回りのこと全て父に決められてきたようなものだったが、これだけは譲れない。
伴侶とする女性を地位や身分だけで選びたくは無かった。

「……いつまでも私が思い通りになるとあまり思わないで下さい!!」

『アスランっ!?』

息子の初めての反抗らしい反抗に、パトリックは目をむく。

「自分の結婚相手は自分で決めます」

二人の間に緊迫した空気が漂った。



「……そうだよ、アスランは、僕…わたしと結婚するんだから!」

冷たい空気を押し破ったのは少女のような声だった。
その声に驚いたのはパトリックだけではなくアスランもだ。
声の主を探すと、カメラの前を陣取って仁王立ちしている。

「…キっ」

『アスラン、誰だ?』

キラがカメラの直ぐ前にいるせいで、パトリックはキラの特異性に気がついていないらしい。

「…ぼ、私はアスランの恋人!結婚するのは私なの!!」

パトリックを指差しながら豪語するキラ。
キラの今の服装はスカートでこそないものの、ベージュ色のパジャマだ。
因みにボタンは左。
どうみても少年だとは思えないだろう。

「そういうわけだから、さようなら、おとうさま」

『お義父様ッ!?』


口をあんぐりと開けたパトリックを最後に映して、回線はキラの手によって閉じられた。
パトリックにしてはまさに晴天の霹靂だろう。
婚約について連絡すれば、殆ど帰れない自宅には知らない女性がいて、あげくにパジャマ姿。
当の息子はシャワーを浴びた直後のよう。
二人の関係は考えずとも分かるというものだ。


「キラ…?」

どういうことなのか問おうとしてアスランは言いよどむ。
自分が彼に話しかけても良いのか分からなかった。
真っ黒になったディスプレイを見ているのか、こちらを見ようとしないキラ。
二人の間に沈黙が漂った。


「……ごめんなさい、アスラン様」

先に長い沈黙を破ったのはキラだった。振り返る目は申し訳無さそうにアスランを見つめる。
敬称の響きに心が痛んだ。自分の罪をまざまざと見せ付けられた気分だ。

「勝手に……あんなこと。僕どうしても我慢できなくて」

「キラっ、謝るのは君じゃない」

再び着信を知らせる音楽が鳴るが、アスランは躊躇することなくそれを切る。
そして一瞬で設定を変える。これで父からは繋がらない。

「……昨日はごめんキラ。本当は…あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。少しいらついていて」

あと2日。
キラといれるのはたったそれだけだ。
2日すれば措置が決まったと言うことで、レノアが迎えに来るだろう。
以前のアスランならば2日程度誰かと仲違いしても気にはしなかっただろう。
寧ろ支障がないのならば一生そのままにでもしていたはずだった。

その良い例がイザークだ。

彼とは過去学校が同じことがあったが、仲良くなろうとも、好かれたいとも微塵も思わなかった。
しかし、キラは今まで出会った誰とも違った。
理由があるわけじゃない、分かるわけじゃない。
ただ後2日と分かっていても、彼との関係を取り戻したかった。


「今更言っても虫が良すぎるかもしれないけど、キラさえよければ、またアスランと呼んでくれないか?」

「……アスラン……僕のこと嫌いになったんじゃないの?」


嫌悪されることを危惧していたアスランは、こぼれんばかりの紫の瞳を潤ませて見上げるキラの言葉に意表を突かれる。
彼の口から飛び出すのは自分への叱責だと思っていた。
どんな冷罵も甘んじるつもりでいたというのに。

「どうして君を……?嫌われるのは俺の方だよ」

「嫌うなんて、無いよ!……僕アスランのこと大好きだよ。アスランみたいに僕に接してくれたのはアスランが最初だし、アスランみたいに…優しくしてくれたのはアスランだけなんだから……アスランが……」
次第にキラの瞳から涙が零れ始めて、言葉は嗚咽に変わってゆく。

「キラ…」

消えてしまいそうな声たち。
覚えたのは、抱き締めたいほどの愛おしさ。
アスランは膝をつくと、もたれるようにしてキラに顔を寄せた。
そうすれば彼により近づける気がした。
キラの細い亜麻色の髪はやはり絹のように美しく、肌はアスランが思っていたよりも白く綺麗だ。
紫の瞳は潤みながらも、その輝きを増倍させ決して美しさを損なうことは無い。

「……ありがとう、俺もキラのこと大好きだよ。今のキラが好きなんだ」

「アスラン」

キラの手がアスランの頬にのび、小さな抱擁を与えられる。トクトクと小さな鼓動が音をたて、瞬く瞳からは涙が頬に水の跡を残す。
アスランの髪から垂れる雫と混じったキラの涙はポトリと落ちた。


「お風呂はいろうよ、キラ」

「はいっ!」

優しく微笑むアスランにキラは元気良く返事をした。




「ねぇ、アスラン」

キラはアスランの手のひらで、浅い湯につかりながら、ちょこんと座って首を傾げる。
先程アヒルから落ちてしまい沈んだ――慌てたアスランがすぐに助けたが――キラは、今はその位置で落ち着いていた。
まだ目が痛いのか頻りに瞬きを繰り返している。

「どうしたのキラ?」

キラの亜麻色の髪には泡が少し見え隠れして、アスランはそこを優しく指で突いた。
湯船は仄かにピンク色に染まり、あたりはイチゴの香に包まれている。
キラはあることに気がついたらしく、ぱっと表情を変えると不服そうな顔で自分の体とアスランの体を見比べる。

「……アスランって意外と筋肉あるね。僕全然細いのに」

「そう?」


手をぱたぱたと振るので、肩に近づければキラがよじ登って、ペシペシとアスランの肩を叩いた。

「キラ?」

「なんだか、100人乗ってもだいじょーぶって感じだもん」

「……物置じゃないから俺」

100人いるキラを思い浮かべて、アスランは微苦笑を浮かべる。
キラがそんなにいたら1人でも大変だというのに、どうなるだろう。

「それで、キラ。さっきは何を言いかけたの?」

聞くと、キラは思い出したように声を上げる。

「そう、あのねアスラン僕のことすきなんだよね」

キラが甘えるような仕草で、アスランの髪にぎゅっと抱きつく。

「うん……?」

「僕も大好きだから、僕達恋人だね。知ってるアスラン?恋人って大人な関係なんだって」

見上げるバイオレットの瞳は嬉しそうに細められて、
「僕これで大人だね!」

と自慢げにのたまう。


「はぁっ!?」

アスランの声はバスルーム独特の反響で数重にも響いて彼の鼓膜を痛いくらいに震わせた。


――タイムリミットはあと2日―

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目の前に並ぶのは、煌びやかという表現が似合いそうなフルコースたち。
オードブルは客の食欲を煽るという役割を十二分に果たし、スープは金色と表現するのがふさわしい鮮やかな色で、口に含むとさっと癖の無い味が咥内に広がり舌を楽しませた。
メインのサーロインステーキはミディアム加減が絶品で、赤ワインをさらに美味しくさせる。
ワインの年号はコズミック初期のものの味わいの深さを感じさせた。
今丁度給仕によってシャーベットが運ばれてきたところだったが、そのシャーベットも口直しというには勿体ないほどの美味だった。

と、普通の者なら思うだろうがアスランはそれどころではなかった。
有名ホテルの有名シェフの作った料理を咀嚼も少なく飲み込む。
家においてきたキラが気になる彼にとって、料理を楽しむことなど出来るはずの無い事だった。
たとえ目の前に好物のロールキャベツが出てきたとしても、何が出てきたか気がつかないだろう。

「アスラン様、どうかなされましたか?」

「いっ、いえ」

丸いテーブルを囲んで、目の前に座る少女がアスランに声をかける。
可愛らしく首を傾げる動作に、桃色の髪が優しく揺れて、春を思わせた。

「そうでしたらよいのですが」

微笑む姿は、妖精のよう。
彼女の名はラクス・クライン。
プラントでは有名な歌手だ。
彼女の柔らかな声は、どんなものの耳にも優しく響き、心を和ませる。
アスランも彼女の歌が好きだし、彼女自身も可愛いとは思っていたが、こうして出会えることになるとは思わなかった。
いや、会いたくなかった。

「アスラン君は写真で見るよりもレノアさんに似ているな、パトリック」

「ああ、そうだろう。完璧なコーディネイトを施したからな」

アスランとラクスの両隣に座るのは、パトリック・ザラ、シーゲル・クライン。
彼らの父親であった。

「アスラン、せっかくこうして婚約者と会ったのだ、何か話すことはないのか?」

パトリックに促されると言うよりも、命令されてアスランは重い口を開く。
婚約者は自分で決めると言いたかったが、彼女に恥をかかせるわけには行かず、それはできない。

「……ご趣味は何ですか?」

アスランここにいるのは、ラクス・クラインとの見合いの為だった。



キラと仲直りしたアスランは今日も彼と一日を過ごす予定でいた。
初めて出来た友人(キラ曰く恋人)だ。その友人に少しでも思い出をとアスランは思っていた。
今まで自分の意思で行動できなかった彼だからこそ、なおさらに。

キラとアスランはいつものように起きて、そのまま一緒にシャワーを浴びて、食事を摂った。
今日の朝食は昨日作りすぎて残ってしまったカレーだったが、キラはどこからか仕入れた知識を自信ありげに語り、美味しいと食べてくれた。

「カレーはね、一日置くと美味しいんだよ!」

キラがそう言うと、そのような気がした。

それから話をしたり、テレビを見たり。
キラは絵を書いたりとして過ごそうとしたところに突然の訪問者が訪れたのだ。
休日と言えど、早朝。誰かと思って、覗き穴を覗くとレノアの顔が見えた。
今回は前回のようなスーツではなかったが、自宅に帰るには適していないイブニングドレスだ。

「母上!?」

アスランが呼びかけるが、返答は無く。
その装いの不自然さからも何かあったのだろ うかと、鍵を開ける。
そして気がつけばガッチリと2メートルに届きそうな男達に両腕を掴まれていた。

「――誰だっ!?」

振り払おうとするが、背中には冷たい銃口の感触。
男の手にはレノアの写真が握られていた。
にっこりと微笑むレノア。
それはサイズは違っても、父の職場に飾られていたものと一緒だった。
そして先程アスランがみたレノアとも。
自分の浅はかさに苦笑する間もなく、アスランはそのまま黒塗りの車内に押し込められる。

「っ―――!!」

動かないように両腕はしっかりとホールドされたままだ。
黒いガラスから覗くと、運転手だろうと推測されるもう一人の人物が、レノアとパトリックそしてアスランしか持っていないはずの鍵でしっかりと玄関の鍵をしていた。
壁伝いに走っていったのは窓の開閉の確認をしに行ったのだろう。

「ふざけるなっ、君達はいったい何なんだ、離せ!!」

撃たれることは無いだろうとくくり、アスランは腕を振り払うように抵抗するが、そのアスランの口に布があてがわれた。

「…っ!」

大声で叫んだ後だったため、呼吸を余儀なくされそれを吸ってしまう。
クロロフォルムはすぐにアスランの意識を奪った。

「……キラ」




そうして、気がつくとスーツに身を包み、ホテルに来ていたわけである。
目の前にはラクス・クライン。そして隣には二人の父親。
ラクス・クラインに以前からファンだったし、食事も最高のものだったが、残してきたキラを案じるアスランにはそれを感じる余裕は無かった。

「趣味ですか?私はやはり歌うことですわ。アスラン様は何ですの?」

「え…えーと、特に無いです」

「アスラン」

思いつかなかったアスランがそう言うと、パトリックから叱責が飛ぶ。

「……機械弄りを少々。マイクロユニットなどを作っています」

「まぁ、素敵ですわ。どんなものを作ったことがおありですの?」

「ハムスターに、鳥もありますね。あと球体の…ハロというのですが」

「ハロちゃんですか。可愛い名前ですの。いつか私にも見せてくださいませんか?」

「え、ええ…」


「じゃぁ、あとは若い者同士ということで」

「そうだな」

アスランとラクスの会話が弾んできたように見えた、パトリックとシーゲルは納得したのか立ち上がった。 コースはまだ残っているが、はじめから全部食べる予定は無かったのかもしれない。
家に帰ることすらまれな父にゆっくり会食する暇は無いだろう。
お決まりの言葉とともに去って行った。

アスランは二人が消えたことに安堵の溜息を吐いた。
これで、少しだけだが重荷は消えた。
キラは今どうしてるだろうか、食事は食べ終わっただろうか。
転んではいないだろうかと考えると、ずんと気持ちが重くなった。
早く帰って彼の安否を確認したい。

「お疲れになりましたか?」

ラクスに声をかけられて、アスランは慌てて笑顔を作った。

「いいえ、すみません。なれないものですから」

「そうでしたら、良いのですが」

ラクスはころころとした笑顔で微笑む。
柔らかな表情はぴんくの妖精という名を持つに相応しいものだ。
彼女は忙しい中この場所に来てくれただろうに、その中でキラのことしか考えてない自分が申し訳なくなる。

「…えーと、趣味は…」

「歌ですわ」

しかし、終れば家に帰れるのだという気持ちが先走ってどうしても目の前のことに集中できない。
今にもキラの待つ家に帰りたくてしかがたがなかった。

「すみません…」

「いいえ。アスラン様は歌がお好きですか?」

「はい、ラクスさんの曲は全部聞かせていただいています。いつもとても綺麗で――」

「ありがとうございます。ではアスラン様が歌うのは?」

ラクスはアスランの言葉を遮るようにして言った。
聞きなれているから必要ないというわけではなく、求めるものを探すようだった。
ふんわりとした印象をそのままに、微笑まれてアスランはドギマギする。

「いえ、私は苦手でして…」

「では言葉は?」

ラクスの言わんとすることが何かアスランには分からず、困惑の眼差しで彼女を見つめた。
透き通った青の瞳が穏やかにアスランを見つめている。

「私は歌に思いを籠めます。そしてあなたは言葉に想いを託すのでしょう」

「…?」

「言葉を伝えたい人がいらっしゃるのでしょう?先ほどから時計ばかり気にしていますわ」

「え…」

こっそりと見ていたつもりだったが、彼女には分かっていたらしい。
ラクスが驚くアスランを見てクスクスと笑う。

「行って下さい。きっと貴方の想い人も貴方をお待ちしていますわ」

ラクスの言葉にアスランは一礼して立ち上がった。
入り口にはアスランを先程ここにつれて来た男達が立っているためか、ラクスも一緒に席を立ち隣を歩く。

「出口までご一緒しましょう?」

「ありがとうございます」

彼女の気遣いが嬉しく、アスランは自然な笑顔をほころばせた。
予定にないことだったらしく、男達はどのような対応をするべきか悩んでいるようだったが、それでも店からは出られた。
彼らを背にラクスはにっこりと微笑む。

「貴方とはよいお友達になれそうですわ。アスラン」

「俺もそう思います。ラクス」

握手をすると、アスランは控える彼らに追いつかれないように走り出した。
一向に追ってくる気配はなかった、きっとラクスが止めてくれているのだろう。
空を見上げると、彼女の瞳の色をしていた。
彼女の気遣いにもう一度感謝してアスランはキラの元へと帰るために全力で疾走した。



車という便利な道具も忘れて。

「お誕生日おめでとうございます。アスラン」

ラクスの声は遠く駆けて行ったアスランには聞こえなかった。





アスランの姿が急に見えなくなったキラは彼を探して、家中を走り回った。
走ったと言っても小さな体のため、二階はまだ回れていない。
とにかく広い家なので、一階だけでも息が上がってしまっていた。


「アスラン〜〜〜!!!!」

肩で荒い息を繰り返しながら、涙交じりの声でアスランの名を呼ぶが一向に反応は得られず、バイトレットの瞳からは涙が零れた。
捨てられたのでは無いだろうかと言う不安までもが心に浮かんでくる。

「……違う、違う。アスランは僕を好きだもん」

キラは昨日の言葉を思い出して自分を奮起させると、涙を拭って再びアスランの名を叫んだ。
しかし、いくど呼んでも彼は現れない。


「アスラン…!!」

階段を数段登ったところで、キラの小さな体は限界を訴えた。
元来激しい運動が出来ない体なのだ。無理をしすぎたようだ。
キラはごろんと寝転んで窓から覗ける空を見つめる。深く青い空だった。

「アスラン…外に…?」

こんなに家を探しても出てこないのだ。
その案まで出てきて、キラは窓のふちにとび乗った。
運よく出っ張っているそこによたよたしながらも到着する。
鍵が閉まっていたら開かなかっただろうが、運よく鍵はかかっていない。

「まっててアスラン!」


キラは精一杯の力で窓に手をかけると、全体重をかけてそれを引いた。
軽い扉はゆっくりと少しずつだが開いて五分もすればキラが通れる幅が出来ていた。
窓が開いたことに歓喜と満足の笑みを浮かべて下を見下ろすと、そこにはキラの想像よりも高い世界があった。
アスランならば普通の距離でも、小さなキラにとってそれは恐怖だった。
顔から血の気が引いて行く。落ちれば助からないことはキラにも分かった。

「どうしようアスラン…」

勇気を起こす言葉になり始めている彼の名を呟いて、キラはぎゅっと胸の前で手を握る。

アスランがいない。アスランに会えない。アスランと離せない。

数日でアスランを中心に回り始めたキラの心は悲鳴を上げる。

「かえってきてよぉ……」

ぐずっと涙を呑みこんで、キラはアスランへと訴えた。
丁度アスランはキラの場所を目指して走ってきているところだが、キラはもちろんそれを知らない。
そのとき、空を待って白い物体がひらひらとキラの前に飛来した。
白い羽は以前見たことあるものだ。

「モンシロチョウ…?」

アスランの言った名前を思い出して、キラは少しだけ顔をほころばせる。
アスランの知識が自分の中で息づいてることへの喜びだった。

「君また来たの?」

チョウはひらひらと舞い、窓の隙間から入ってくる。
手を伸ばせば今にも届きそうな距離だ。
チョウの目はどこまでも黒かった。

キラは再び外に出てしまいそうなチョウに手を伸ばした。


「あ、――――っ!!!」


声にならない悲鳴を上げるが、それはアスランには届かなかった。




アスランが帰宅すると、シンと静まり返った玄関が彼を迎えた。

「ただいま、キラー?」

すぐさまキラを探して、靴も乱雑なままにアスランはリビングへと走る。
しかしキラはそこにはいない。あるのは、ソファーに置かれたままのテディベア。

「キラ?」

下にいるのだろうかと、ぬいぐるみを引っくり返してみるがキラはいない。

「……キラ、まさか怒ってるのか?ごめん、一人にするつもりはなかったんだ」

「キラー!お菓子を買ってきたんだ。一緒に食べよう!」

「出て来てくれキラ。お風呂でも何でも入るから」


しかし何を言ってもキラは出てこなかった。アスランも不安になってくる。

「キラっ!!」

アスランは声を張り上げてキラを呼んだ。帰ってくるのは沈黙。

「くそっ…」

扉を乱暴に開けて、二階へと走る。

もしかしたら上で寝ているだけかもしれない。

しかし、ベッドにもバスケットにも彼の姿はなかった。

「キラ……」

もしかして措置が決まり、レノアが来たのだろうか…。

しかし、それならば連絡くれてもいいはずだ。

アスランは慌てて、通信を見るが、見て直ぐに舌打をする。
通信は昨日パトリックのせいで身内からは通じないようになっていたのだ。
今になってどうしてあのようなことをしたのだと悔やまれる。
置手紙が無いかとを探すが、どこにも無かった。

「キラ」


もともと広い家だったが、あの小さなキラがいなくなったというだけで何倍も広く感じられた。
照明もいつもと変わらないというのに、部屋は暗く見える。

「……」

レノアが彼を迎えに来たというのなら、文句は言えない。始めからそういう約束でキラを引き取ったのだ。
今日は6日目だ、1日くらい早くなることもあるだろう。

「……最後に何もいえないなんて」

アスランは朝食の後片付けの終っていないテーブルにつく。
キラのための小さな器が視界に入ると、何かが心を引っ掻き、痛みをアスランに与える。
始めはすぐに一週間などたつと思っていた。
経って欲しいと感じていた。
キラの存在を煩わしいとも感じたのに、今はこんなにもいないことに違和感を感じるとは。
キラがいないと広い部屋。キラがいないと暗い部屋。

キラがいないと…

それはアスランが当の昔に封じたはずの感情だった。
帰ってこない父、帰ってこない母。
待っても、待っても期待は裏切られ、いつしか感じなくなったと思っていた感情。

「……キラ、君がいないと寂しいよ」

胸を締め付ける苦しさは過去に感じたどれよりも大きく、辛かった。
ふとアスランは冷たい風が吹き込んでいるのに気がついた。
見ると、階段脇の扉が開いていた。

動く気にはなれなかったが、それでも今は秋。冬もそろそろ準備を始めそうな季節だ。
風邪をひいてはキラに笑われるなと、アスランは苦笑を浮かべながら立ち上がった。
そして窓の前で、淵に落ちているものに気がつく。

「モンシロチョウ?」

以前みたモンシロチョウだった。
あの時のチョウかは分からないが、たしかに同じ種類だ。
あまり見ることのないチョウをここ一週間で二度も見るなんて。
そう思いながらチョウに手を伸ばした。
死んでいるのだろうか、羽を閉じたままピクリとも動かない。

―――電池が切れたのかな?……明日、きてくれるかな?―――

アスランはキラの言葉を思い出して苦笑した。
翌日には来てくれなかったが、こうして来てくれたのに、キラはもういない。
彼の事が思い出になってゆくのが、酷くやるせなかった。

「キラ、なんで電池だなんて……」

記憶に縋るように呟いて、アスランは言葉を噤んだ。
置手紙も残さなかったレノア。何も言わずに消えたキラ。

「………まさか」
もしそれが正しければ、全てが繋がる気がした。
ただの勘違いだった場合どうするのだと、良心がアスランを攻め立てたが、小さな良心よりもキラだった。
アスランは意を決してそれに手を伸ばす。

「ごめんっ!!」


ガリという音が響いて、現れたのは予想したもの。
しかしその事実にアスランは目を見開いた。
緑の瞳が慄いて揺れる。
砕けたモンシロチョウの体から覗くのは無数のコードと小さなICチップ。
触角にはミクロのカメラが搭載されているはずだ。

「……ロボット」

ロボットを専門に扱うアスランでさえ見たことも無いほど精巧なものだった。
一般人がやすやすと手に入れることが出来ないレベルだ。
アスランはこのようなものをここに遣わす者に心当たりがあった。

「―――研究所ッ!?」

キラの口から数度出てきた言葉だ。
哀しい過去だろうと触れなかったが、彼らがキラを取り戻しにきたと考えればつじつまが合う。



――――僕アスランのこと大好きだよ――――


脳裏に浮かぶのは、そう言って泣きそうな顔で微笑んだキラ。
紫の瞳は涙で濡れて輝き、白い肌には涙が伝っていた。
それでも、アスランが好きだと言ったキラ。
アスランは血がでるほど強く拳を握り締めた。


「キラッ!!」

============




雲が一つ二つの青い空。
イザークはその空の下でエレカを走らせていた。
賑わいを見せる商店街周辺を完全に抜けると、緑の景観に目を捕らわれる。
その大半が人工のものだろうが、作られた美しさも否定できはしない。
助手席に置かれているのは、ドールショップとピンクの文字で印字された紙袋だった。

当然その中にあるのは商品である人形用の服だ。
イザークはそれを一瞥すると、強い眼光で前を睨みつける。
緑はストレスを緩和させる効果を持つが、既にイザークの目にそれは映っていない。
思い浮かぶのは憎たらしい宿敵。

「――何故俺が、こんなことを!」

ハンドルやアクセルを蹴るわけには行かず、イザークは思いつく限りの罵詈雑言を叫ぶ。

「これも全て貴様のせいだ。アスラァンッ!!」

休日だというのにわざわざこのような場所まで来たのは、ザラ邸を訪れるためだった。
ドールショップの経営者として。


ドールショップはその名の通り人形から洋服、そして小道具まで一通り揃えてある人形用品専門店だ。
一見イザークのイメージとは結びつかないその店は、イザークがエザリアに運営を任された物だった。
将来のために今から勉強しておくべきだと言うエザリアの主張でジュール系列の店の経営を任されたが、何故か人形用品専門店。
納得は行かなかったが、それをエザリアに直訴する勇気はイザークには無かった。
何かあるたびに「昔はこんなに可愛らしかったというのに」と過去の汚点である写真をちらつかせるのだ。歯向かいようが無い。


このような店を訪れる知人はいないだろうと高を括っていたが、先日イザークは何故か天敵とも言えるアスランと出くわすことになった。
アスラン・ザラはイザークにとって、口に出すだけでも沸々と苛立ちが湧く相手だ。
イザークはあの独特な空気と従業員の制服が苦手なため、出来る限り経営はメールや通信で済ませていたが、あの日はエザリアに自分の目で見ることが大事だとせっつかれての訪問だった。
そこで会ったアスラン。エザリアの思惑が絡んでいる気がするのは思い過ごしであってほしい。

「しかし、あいつにこんな趣味があったとは」

人形に名前までつけて持ち歩いていることには流石に少々驚いたが、昔からロボットなどを作っていた彼ならありえる気がした。寧ろ似合う。
鼻で笑ってやりたい気分だったが、方向性は違っても、同じ秘密を持つ者として親近感も湧いてくる。あんなサングラスをつけてまで明るみにしたくない趣味だろう。
そう思うと不憫にも思えてくる。
もちろん優越感が勝っていたが。


アスランに対して少しだけ同情していたイザークに今朝届いたのは一つの荷物だった。
もちろんイザークに人形と戯れるような趣味は無いため、彼が頼んだものではない。
そして荷物の到着を見計らったようにかかってきた通信。

「棚の下からこの商品が出てきたんです。多分先日のあのお客様のものだと思うので すが、オーナーのご友人なのですよね?」

店に顔を出してから明らかに対応が変わった従業員の言葉だった。

そうしてイザークは今エレカを走らせているのである。
アスランの家はそう遠くなかったが、時間が経つごとにアスランへの同情という感情は消え去り、代わりに生まれたのは憤りだった。
しかし客は客。無碍にも出来ずにイザークは罵声をBGM代わりにアスランの家へと向かう。



イザークの罵声の語彙も尽きようとしていたころだった。
前から明らかに速度違反の速さで対向車が向かってくる。
法を守らないその白い車にイザークは眉を顰めた。
人通りはまったく無く、車も少ないとは言え制限速度は守るべきだ。

どんなやつが運転しているのかと、その車に目をやった。
法も弁えないような愚か者が乗っているのだろうと思えば、運転手はきっちりとスーツをまとった男性。
その隣には白衣を来た女性が座っている。
二人とも頬骨まで覆うようなサングラスをつけていた。
一瞬アスランかと思うが、別人だ。


すれ違う時に後部座席も見えたが、彼らも同じサングラスをかけていた。
そしてイザークの目にサングラスの人物の持っていた籠が目に入る。
鳥かごのようなものの中には確かに先日見たものがあった。
コーディネイタートップの動体視力がそれを捉える。
一瞬のことだったが、確かにあれはアスランが持っていた人形だった。
たしか名前は…

「キラ?」

茶色の髪に白い肌。
着ているのはドールショップの商品。
目は閉じていたが、瞼の奥にあるのはあの紫の瞳なのだろう。

「あいつ、増産でも始めたのか…?」


イザークはそのままアスランの家へと向かった。




イザークがアスランの家に着くのと、アスランが玄関から飛び出すのはほぼ同時だった。
インターフォンに手を伸ばそうとして、突然開いた扉に頭を強打する。
ガンという鈍い音がして、イザークはあまりの痛さに意識を飛ばしかけた。
白い肌に朱がさす。
こんなことをするやつはただ一人しかいない。

「アスラァァンッ!!」

痛みにうずくまって見上げると、やはりアスランがいた。
アスランはイザークなど目に入っていないようにそのまま通り過ぎようとする。

「待て!!」

イザークは乱暴に彼の服を掴んだ。
自分にこのようなことをしておいて、そのまま行かせるつもりは全くない。
土下座させても割に合わない。

「――イザーク!?」

引き止められて振り返るアスランは今気がついたとでも言わんばかりの驚き方だった。
しかもそのままイザークの手を振り払おうとする。

「離してくれ、急いでるんだ」

「ふざけるな貴様!!」

客だからと言い聞かせようとしたイザークだったが、短気な彼には無理なことだった。
持ってきた紙袋を感情のままに彼の顔面めがけて投げ下ろす。
ばっと商品が散らばった。飛び出したのは桃色の淡い服と、オプション各種。

「ッ!」

紙袋の角が目にあったらしく、よろめくアスランだったが、その服を見てはっとしたように動きを止める。表情は焦りを含んでいた。

「キラの服だろう?」

『キラ』に嘲笑を含めながら言うと、アスランの顔色がその名前に反応して変わる。

「キラを知ってるのか。キラはどこにっ!?」

「……はぁ!?」


アスランはイザークに詰め寄った。
嫌いだといっても今は手段も人も選んでいられない。
キラのためならば法さえ犯す覚悟だ。
イザークは驚いたようだったが、アスランの動揺振りに常時ではないことに気がついて、眉を顰める。
このようなアスランを見るのは始めてだった。

「無くしでもしたのか?」

問うとアスランは辛そうに顔を歪める。
答えは明らかだ。
イザークには思い当たりがあった。
先ほどのあの車だ。
しかし、額の痛みが言葉の邪魔をする。
簡単に教えてやるのは癪な気がした。

「頼む、知っていることがあったら教えてくれ!」

アスランはイザークに頭を下げた。
藍色の髪が顔を隠し、地面に影を作る。
癪…だと思っていたが、こうされては自分の方が大人気ない気がしてくる。

「……さっき、白い車が向こうに行ったぞ」

イザークは、自分が来た方向を指差した。貸しだと言葉の最後につける。

「ありがとう、イザーク」

アスランは言葉も途中で駆け出した。

「おっ、おい!?」

イザークの手からエレカの鍵を奪って。



イザークの了承を得る事無く彼のエレカに勝手に飛び乗り、手早く稼動させる。
目の前にあるのだ。
使わない手はない。
駐車場に行く時間すら疎ましかった。
アクセルを力強く踏み込んで走り出す。

「アスラァァン―――!!!」

後ろで叫ぶ声が聞こえたが、気にしてなどいられなかった。





「うっ、うん……」

キラはうっすらと目を開けた。
そこはここ数日慣れ親しんだアスランの部屋ではなかった。
もちろん隣に彼はいない。
あるのは暗闇。

「ここ…」

まだはっきりとしない頭で考えると、先ほどのことが思い出された。
アスランを探して部屋を探し回った。
しかし彼はおらず、気がつけば、知らない人の手の中にいて。
それからの記憶はない。

「……僕」

さっと血の気が引いた。
暗闇に目も慣れて行く。
浮かび上がるのは闇よりも暗い過去の記憶たち。
まざまざと思い出して、そしてそれがこの場所である事に気がついて、キラは言葉を失った。
部屋の各地に設置されたケースの中の擬似羊水には、人になりえなかった肉片たちが浮かぶ。

人だけではなく、魚や図鑑には載っていないような生物もたくさんいた。
その瞳がどれも自分に向いているような気がして、キラは身をすくませる。
ここから出ようと出口を探したが、冷たい鉄格子に阻まれた。

「やだっ、アスラ…ン…アスラン!!」

叫ぶが、声は静寂を打ち壊すだけ響いて霧散して行くだけ。
その後にはまた静寂が戻る。



「アス……」
幾度叫んだだろうか、キラの喉からは擦れた声しか出なくなっていた。
闇と沈黙がキラを追い詰める。

その沈黙を破ったのは足音だった。
音が近づくたびにキラの体は強張って行く。

「あ…、ぁ」

喉から引きつったような悲鳴が洩れた。



written by アルカロイド系/橘けろろ様&樹ひかる様

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UpData 2005/12/15
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